ピンピンコロリで人生をやりきった父から学ぶこと

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前田祐希(まえだゆき)です。

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今日のテーマは、

「ピンピンコロリで人生をやりきった父から学ぶこと」

久しぶりの投稿となりました。

実は、今年に入ってから体調が思わしくなかった父が、6月23日に旅立ちました。

実家に残された母を一人にしておくことが出来ずに、父が、入院した時から実家に泊まり込み、難病の母のケアをしながら、父の逝去後も遺品の整理や手続き、母親の引っ越し後の対応に追われる日々でした。

今は、自分の家に戻り、ようやく目処がたってきたので、仕事も再開する運びになりました。

宇宙から必要なメッセージも受け取る日々の中で、振り返ってみたいと思います。

◆一昨年から受け取っていた必要なメッセージ

実家で暮らす父と母
10年以上血液の疾患を持つ父と難病指定の母の2人暮らし

実家は自営業で床屋を経営していました。
父が出来る範囲で予約を取って、
お客さんが来ていました。
多い日で1日に6名、ゼロの日もあった。

父の体調をみる限り、結構無理をしているのではないかと思うことがあり、
いつ体調に変化が起きてもおかしくない状態でした。

私にとっては、実家から電話がかかってくる時というのは
急な用事/どちらかが入院などの緊急事態になった時
との思いがあり、
実家から電話がかかってくる時は、いつも心構えをしている状態でした。

2020年頃から
色々なところで私が、ワークショップに参加したりする度に
参加者からの声を通して、必要なメッセージを受け取るようになりました。
多くは、健康に関するもの

あるワークショップに参加した時の雑談で

〇北海道に住む父親の具合が悪くて、東京と北海道を行ったり来たりしている
 父の具合によっては、北海道に滞在していないといけないんです
 という人がいました

 ⇒この方の状況から私に当てはめてみると
  私の両親に何かあった時、実家に泊まれるスペースがないな~
  実家に私が泊まれるスペースを作らないと
 何かあった時にまずいな~と思い、実家の荷物が片付ける準備を始めようと
 思ったのです

又、別のワークショップに参加した時には、

〇父が認知症になったんですけど、その対応を兄弟で話し合いができなく、
 裁判になっていて、今ストレスマックス状態なんです
 という人がいました

 ⇒私の父が認知症になったら、母親は何もできないな~
  事務処理などすべて父親任せになっていて、
  銀行でお金を引き出すのも全部父親がやっていて
  キャッシュカードも持っていない。
  すべてアナログ対応(窓口で紙に書いて現金を引き出している状態)
  だから、認知症になったらお金が引き出せなくなるかもしれない
  と思い、父にはキャッシュカードを作って、他の家族が対応できるように話をしました

2020年からこのようなメッセージを行く所々で受け取るようになり
私もそろそろ家族としての準備をしていかないといけないと感じたのです。

両親には、「終活」という言葉はピンとこないかもしれないし、生きているうちに、死んだ時の話をするのは嫌かもしれない

なかなか終活について、時間を作ってくれない両親に実家に行く度に話をして、ようやく2021年末くらいから動いてくれたのです。

残された人にとっては、元気で動けているうちに情報の引継ぎが必要です。
しかも同居をしていれば、なんとなくわかることでも別居をしていると、まったくわからないです。

私のケースは、後者です。結婚して実家を出てから、親の状態に関しては、何もわからない状態でした。

◆体調の変化と緊急での入院

2022年になり、父の体調に変化が出てきました。

3月に足がパンパンに浮腫んで、大木のようになり、病院に行った時に、検査入院を勧められました。実家で母親を一人にしていくことができず、しかも私が泊まれるスペースもない。インターネットも繋がらない

父には、外来での検査をお願いし、私もその検査に同行するようになりました。

4月に入ってから週に2~3日、消化器科、内科、循環器科、腎内科など
様々な科に行き、検査をしては薬を出されるという状態が続きました。

4月の中旬にいったんは、良くなった浮腫み、血液検査の内容もまあまあ大丈夫という状態になり私も一安心。
通院は一旦必要最低限の科のみとなり、今度は実家の荷物の片づけに入りました。

着なくなった洋服など不要なものを捨て、冷蔵庫の賞味期限をチェックしたり
家の周りの植物などの整理もし、ようやく人が泊まれる状態になり、6月になり一度泊まってみたのです。
また熱帯夜までの状態ではなかったので、冷房の心配は大丈夫でした。

これで何かあったとしても実家に泊まれる。と準備が終わったところ
6月18日に父が玄関手前で倒れ、救急車で運ばれました。
数日前から少し熱があり、入院した時には、熱が39℃を超えて、肺炎のような症状になっていました。

母からの夜に電話があった時
「お父さんが倒れた」と聞いた時には、
「あ~とうとうこの時が来たのか」と。

病院に駆けつけて、父に会い、意識はあり会話はしましたが、熱のせいかぐったりしていました。
この後、肺炎の治療に入りますと先生から告げられた時
「もしかしたら、会えるのはこれが最後になるかも」と思うくらい、体力が落ちて、限界に近かったのを感じたのです。

希望としては、父の熱が下がり、、少しリハビリの期間を経て、なんとか実家で生活ができればという思いを抱いて父とは別れました。

今は、コロナの検査もあって、すぐには一般病棟に入れず、感染棟に一旦 入って
そこでPCR検査を何回か受けて陰性だったら一般病棟に入るという流れ

家族はこの時期、病棟には入れません。

◆穏やかな最後を迎えて

病院から電話が入ったのは、6月22日の23時過ぎでした。
「すぐに来てください」という内容で
たまたまこの日は、私が自分の家に帰り
母は近くに住む叔母さんの家に泊まりに行っていた時でした。

母と叔母が一緒に病院にかけつけて、私も家からタクシーで駆けつけ、
数時間で亡くなりました。
最後は、父に会うことが出来たし、「今までありがとう」と御礼を言うことができました。

私達の言葉に反応することはなかったですが、
聴覚はしっかりとしていたと思うので、聞こえていたと思います。

父が亡くなった時
たまたま叔母が一緒にいたので、すぐに葬儀屋の手配をしてくれました。

葬儀屋さんのアテがなかった私にとっては、叔母の存在は有難かったです。

そして、次の日からすぐに葬儀の日時の調整になり、父が残してくれた電話帳やメモを探してお世話になっている宮司さんに電話をすることもできました。

これも私がバタバタしないように、すぐに見つけることができました。

遺影に使う父の写真も入院中に本棚を整理していたら笑顔で写っている写真が出てきて、
これもすぐに対応することができました。

母については、父の検査通院の期間中に、できる事/できない事、必要なものを教えてもらいました。
ある意味、この2ヵ月間が父からの引継ぎ期間だったように思います。

亡くなってから私が何かを対応する度、
「この人に連絡してみたら。。」というメッセージが私に入るようになり
そのとおりにしてみたら
無事に会いたい人に辿りつけたということが何回もありました。

きっと父親がやり残した分で、私が困り果てないように、サポートをしてくれているのだということを感じざるを得ません。

残された家族にとっては、急な出来事でしたが、父は、必要最低限のことは引き継いで
母のケアも目処がたってきたところで
「あとは任せた!」と思って旅立ったのかもしれません。

父は、精一杯生き、今世での目標を達成した。肉体から抜け出た魂は、とても穏やかです。私達家族は、決して悲観することもなく、立派に生き切った父を誇りに思います。

◆父親の生き方を通して学ぶこと

父が旅立ってから、
通夜、葬儀を通して、いろいろな人から父の話を聞くことが多かったです。
「床屋には、もう60年通っているんだよね。ツーカーの仲だから、
椅子に座れば勝手に髪の毛をやってくれるんだよね。これからどうしようか」
「もっとやれると思っていたのに、残念だよね」

「他に行くところがないよ。なんとかしてよ」

そんな声を聞く度に、父親が多くの人から愛され、最後の最後まで力のある限り、エネルギーを振り絞り、最後のお客様の接客をやり遂げ、ピンピンコロリでした。

父は、祖母が理容業をしていた関係で、中学を卒業してから床屋に修行に入りました。

理容の世界で、人を助けるんだという思いで名前を「理助」と名付けられ、
名前の通り、まさに人生をかけて、「理容」の道で84歳の生涯を終えた。
とても立派だったと思います。

私は、幼少の頃から床屋であるがゆえに、日曜日に家族で出かけている友達が羨ましくて
サラリーマン家庭に憧れていました。
自営業は常に、お客様が優先、両親と出かけた思い出はほとんどないです。
サラリーマン家庭の子が羨ましくて、私は絶対に自営業はやりたくないと心に決めて、サラリーマンをずっとやっていました。
しかし、今は個人事業主ですので、結局は同じ道を歩んでいます。

今となっては、家族よりもお客様に喜ばれることを優先していた父親の生き方は
見習うこともあります。
お金を稼ぎたいとか有名になりたいから仕事をするということではなく、目の前にいるお客様に常に全力投球して、喜んでもらう
父親もお客様と会話するのが大好きだったと思います。

家族でどこかに出かけたという思い出は少ないですが、
父が亡くなる2ヵ月は、一緒に通院しながら
検査待ちの間に一緒におにぎり食べたり、コンビニのコーヒーを飲んだりして
少ない時間を共有できたのがとても嬉しかったです。

小さな町の床屋さん
町の人、お客様として長きに関わった人から愛されてきた父親

私が知らない父親の姿が、亡くなってから明らかになってきました。

最後まで現役で自分の命を使って生きた。
その証は、きっと関わった人に届いていると思うし
私自身もこれから先の人生
父親のように「お客様に喜んでもらえること」を第一に
本格的に仕事を再開していきたいと思っています。

きっと今ごろは、2015年に亡くなった妹と会い、再会を喜んでいる。

今度は、天国から、私と母親の様子を見守ってくれるに違いないと思っています。

人生100年時代
元気に人生後半を過ごすか?
それには日々の過ごし方が大切です。
その日その日を目一杯生きること。

人として大切なことは、何か大きなことを成し遂げた、たくさん稼いだことよりも
どれだけ心を込めてやったか」です。

私達は、魂の存在でもあり、現実世界では、「人」として存在します。
そのバランスが大事です。

ひとりの人生から学ぶこと
こうして、人は人と関わっていくことで、成長し人生を学んでいくのだと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。