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前田祐希(まえだゆき)です
今日は、前から行きたいと思って気になっていた「日本橋七福神めぐり」をしてきました
1年くらい前から行きたいと思いつつ、都心だし、行こうと思えばいつでも行けるという気持ちがあって、中々行動しないでいました
今の時期だからこそ、やりたいと思っていたことはやってしまおうと思った次第です。
そして、お昼過ぎに家を出て、日本橋に向かいました
事前に地図を調べて、どの順番で回ったら一番いいのかを考えて、今日は、銀座線「三越前」駅で降りて、まずは日本橋三越本店で、お手洗いを済ませました
そこから歩いて、まずは、
①小網神社です
最近、金運アップとして有名になり、人が多いと聞いていました。
今日は、5~6人がご参拝しているくらいでした。
小網神社は、健康長寿の「福禄寿」と財運向上・学芸成就の弁財天が祀られています。
稲荷神を主祭神とする小網神社は、約550年前の文正元年(1466年)悪疫鎮静の神として鎮座。
社殿(昭和4年建立)が戦災を免れたり、同神社の御守を受け戦地に赴いた兵士全員が無事に帰還したことなどから近年「強運厄除の神」として信仰を集めています(日本橋七福神巡りパンフレットより)
私もここで、お金を洗ってきました
そして、次に向かったのはは、茶ノ木神社です。
地図でみると、小網神社からわずかな距離です。
一応ナビに従って向かったですが、どうしても場所がわからなくて、同じ場所を何周もぐるぐる回ってしまいました(笑)
途中、人形町らしい建物を見つけたりして写真↓
下町の雰囲気が出ていますよね。
そして、ようやく茶ノ木神社にたどりついたのですが、人がいなくて、私だけでした。
②茶ノ木神社
茶ノ木神社は、御祭神が倉稲魂大神。布袋尊です。
昔、この土地は、徳川時代約三千坪に及ぶ下総佐倉の城主(十八万石)大老堀田家の上屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものであります。
社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶ノ木の緑が実に見事であったと伝えられている。今でも防災・生産の神様として信仰を集めています(日本橋七福神巡りパンフレットより)
私がお清めをしている時に、女性2人組がやってきて、早々とお参りしていました。そして何やら左手の社務所に向かっていって、御朱印をもらおうとしていたのだと思いますが、
行ったりきたりして中々、中に入りません。
私もご参拝が終わって、御朱印をいただこうと同じ場所に行ったところ、鍵が閉まっていて、お休みでした。
3人であたりをウロウロしていましたところ、
見知らぬ男性が、「今、神主さんいないよ!」「御朱印?」「3人?」と聞いてきました。
「今、呼んでくるからちょっと待ってて!!!」
と言い残して去っていかれました
状況がつかめぬまま、3人でドアの前で待っていました。
すると、神主さんらしき人(普段着を着ていましたから)がやってきて、ドアの鍵を開けてくれました
そして、
神主さん「御朱印は、2種類あるよ、どれにする?」
と聞かれ、せっかくなので、2種類欲しいと思って、
私「両方お願いします!」とお願いしました。
そして、御朱印をいただいたところ、私 手元に5000円札しかなくて、
私「御釣りありますか?」
神主さん「今ちょっと。。。」
私、こんな状況でここには現金は準備していないよなと思い、どうしようなかと考えていました。
そして、残りの2人が、御朱印を2種類ずついただいたので、1枚¥500で、計2000円が神主さんのところに入ってきました。
そして神主さんの御朱印の入れ物にあった紙幣が2000円で、ちょうど¥4000の御釣りができました。
それを私にくれて、私は無事に御朱印を2枚いただけることになりました!!
神主さんに話を聞けば、普段はここは開けていなくて、御祭の時しかここでは御朱印はでないとか。
ある意味、私達はラッキーでした!
しかも私はおつりもちゃんといただけて、
もしかしたら、この2人と出会うタイミングが必要だったから、
小網神社→茶ノ木神社までを私は、ぐるぐる回っていたのかも。。
と思いました!
後から知ったのですが、茶ノ木神社の御朱印は、七福神巡りの他の神社でもいただけるそうですが、その時によって、預かっている枚数が限られるらしく、いただけない場合もあるみたいです。
そして、有難く茶ノ木神社を後にして、次は、水天宮内にある宝生弁財天です
茶ノ木神社から地図も見ないで、大通りに出ましたら、右斜め前に水天宮の建物が見えました!
③宝生弁財天(水天宮内)弁財天です
久留米藩第9代藩主、有馬頼徳公(ありまよりのり)が、加賀藩11代藩主、前田斉広(まえだなりなが)と宝生流能楽以来、宝生弁財天と敬われている。芸事をはじめ、学業・金運のご利益が名高いと現在に至るまで篤く信仰されています。また水天宮本殿についても文政元年(1818)に江戸上屋敷の邸内に祀ったのが始まり(日本橋七福神巡りパンフレットより)
↑水天宮のご本殿
水天宮でのご参拝を終えて、次は、松島神社です
地図を見れば、大きな道路から1本入ったところです
④松島神社 大国神です
創建は、口伝によると、鎌倉時代の元亭(1321)以前と推定される。
昔、このあたりが入り海であった頃小島があり、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、夜毎掲げる燈火を目標に
舟人が航海の安全を得たと伝えれている。天正13年(1585)2月13日、邸宅を公開。
島内松樹鬱蒼たるにより、人々松島稲荷大明神と唱えた。
御祭神は、大国主神をはじめ、ご神格の高い神様が、14柱と他社に比べて多い(日本橋七福神巡りパンフレットより)
↑ビルの間にひっそりと存在していました
⑤末廣神社 毘沙門天です
慶長元年(1596)以前に稲荷祠として鎮座。
この地にあった吉原の氏神として信仰された。
延宝3年の社殿修復の際に中啓が見つかったことから末廣神社と名付けられる。幕府に仕える武家からの崇敬も篤く、旗下火消頭に庇護や祭事の奉仕もさせている。
毘沙門天のご神徳は勝運向上が有名だが、その昔当社は疫病鎮めの信仰も集めたことから病気平癒はもちろん、厄除け、財運向上、福徳繁栄など多聞天の別名のとおり、今では様々な御神徳を求めて祈願する参拝者が多い
(日本橋七福神巡りパンフレットより)
次に向かったのは、笠間稲荷神社です。
末廣神社からわずかなところです
⑥笠間稲荷神社 寿老神です
日本三大稲荷のひとつ茨城県・笠間神社は、笠間藩主牧野家により代々厚い信仰が寄せられてきた。江戸時代末期安政6年(1859)藩主牧野貞直公が笠間から御分霊を江戸下屋敷に奉斎したのが始まり。
以降、牧野家のみならず、日本橋魚河岸の守り神として、五穀・水産・殖産興業の守護神として商人庶民問わず、広く信仰を集めた。
寿老神は長寿の神としてお導きの神、幸運の神として人々の運命を開拓して下さる福徳長寿の守護神です(日本橋七福神巡りパンフレットより)
笠間稲荷神社を後にして、最後は椙森神社(すぎのもり)です
⑦椙森(すぎのもり)神社 恵比寿神です
遠く1千年の昔創建にして、天慶三年(940)田原藤太秀戦勝を祈願し強敵を亡ぼす。
文正の頃、関東一帯連年早魃ありて、太田道灌、当社に詣で乞い祈らばその霊験あり、
尊敬のあまり山城国稲荷山五社大神を祭祀す。
特に神道家の吉川惟足は信仰厚く、五社稲荷の一社なる大巳貴大神のご宣託に依り、恵比寿大神を奉斎せられ、今日に至るも年々盛大に、祭典を執行せり(10月19日、20日)江戸時代の富興行を記念した富塚があり、宝くじ祈願の参拝者も多い(日本橋七福神巡りパンフレットより)
最後の椙森神社ご参拝後には、太陽の日差しがまぶしく、輝いていました。
時間にして16:30を過ぎた頃でした。
無事に七福神巡りを
させていただいて、本当にありがたかったです。
神社巡りをしている時だけ、神様に感謝をするのではなく、
日々の中で、平穏な毎日を送れていることに感謝をし、生きている間は、たゆまぬ努力をして願望実現を図っていくものであると感じたのでした。
きっと、昔も今も、人々にとって、こうした信仰は変わらない。
七福神めぐりを通して、江戸下町の情緒を感じながら、この街が後世に大切に受け継がれていって欲しいですね。
★日本橋七福神めぐり公式HPはこちら
https://www.nihonbashi-shichifukujin.gr.jp/
帰りは、また三越まで戻ってきて、銀座線で帰りました
三越の通りは、周りには老舗の本店が立ち並んでいて、とても富貴を感じるところです。